400年の歴史と共に
  肥前吉田焼
肥前吉田焼窯元協同組合 
〒843-0303 佐賀県嬉野市嬉野町大字吉田丁4525-1

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史跡めぐりコース
太刀洗川史跡(たちあらいがわしせき)

 大舟の集落に向かって一の坂から不動山川に流れこむ支流があるが、この川を太刀洗川と呼んでいる。
 キリシタン信者を斬った太刀を洗った川という意味でこの名前がつけられた。川の東に寺屋敷と呼ばれる所もあり、キリシタンを圧迫し、仏教を強く信仰させようとした跡であるとも考えられる。
垣内史跡

 太刀洗川の川上の方にあり、三方を山で囲まれている。ここは、昔、垣をめぐらした簡単な牢獄のような施設があり、備えられたキリシタン信者を集めつないでそこで斬ったともいわれ、また、信者たちが集会をしていた所ともいわれている。
心月妙泉尼之碑

 不動山川にかかる、川瀬橋のすぐ上方にひっそりと人目に知れず苔むした心月妙泉尼之碑がある。キリシタン討伐で信者と思われた家は、シラミつぶしに押し入られ、かたっぱしから斬られていった。普門坊の一隊に追われ裏口から逃れようとしたとき、袈裟斬された家人を薄くらがりに馴れた目でよく見れば、それは赤児を抱いた若い女であった。この母親は、我が子にしがみつきながら、息を引き取る間際に「なまんだぶ、なまんだあ...」と唱えた。その念仏を聞いたふ討手は、「しまった、この女は仏教の信者だった。」とさけんで、あまりのふびんさね碑を建て厚くに弔ってあげたものとつたえられている。
馬場の子屋敷跡

 この子屋敷は、厳しい処罰を受けたキリシタン信者の子供たちの家があったという話やその子供たちをここで焼いたという悲しい話もある。また、ここは明治の初めの頃、もいし塚という塚があり、死んだキリシタン信者や子供たちを哀れんで供養がなされていた。「もいし塚」のもいしは、子供という意味のポルトガル語「モコス」がなまったのかもいれないと言われる
野添史跡

 江戸時代に、迫害から逃れるため幸助谷(子捨谷)で、足手まといになる子供達を捨てたキリシタン信徒達は、恐ろしい追手の剣から逃げながらも捨てた子供たちが気がかり、子捨て谷を振り返りながらのぞいたのでその「のぞく」が転じて、その附近を「のぞえ」というようになったと伝えられる。

子捨谷(幸助谷)史跡
        
肥前磁器窯跡

 隠れキリシタンの哀話を留めるロマンの里、不動山。
その皿屋谷一帯には、数基の窯跡が点在し、現在確認されているだけでも五基を数える。これを皿屋谷一号窯跡、二号窯跡というように番号で呼び、この中の三号窯跡は、昭和53年(1978年)11月~12月にかけて国の補助を受け、発掘調査を実施し、昭和56年(1978年)2月25日に不動窯跡として国の指定を受けるに至った。
 窯跡の依存状態が良好で、芙蓉手の染付や青磁の大物等優れた品が発見された。
 窯跡の年代は「熱残留磁気測定」によると、1680年±30年と推定されているが、当地区の窯についての記録や古文書などに記載がないため、300年も以上の昔にこの様な優れた作品が誰の指導によってつくられ、どのようにして市場に出されたかは一切不明である。一説によれば、隠れキリシタンとも関係があるのではないか、鍋島藩のかくし窯であったともいわれている。いずれにしろ、有田・波佐見相互の影響を受けながら発達し、短期間で廃窯になったものと思われる。
大茶樹

 大正15年(1926年)10月20日、国の天然記念物に指定された大茶樹は、茶としては珍しく巨大で、枝張約80m平方、樹高4.6mで、お茶どころ嬉野のシンボルのひとつ。
 その嬉野茶の茶祖として崇められている吉村新兵衛は、慶長8年(1603年)佐賀妙案寺小路に生まれ、杵島郡白石南郷に移住したが、往来札に関し御法度にふれ、慶安3年(1650年)切腹と決まったが、父・太郎右衛門、祖父・三郎右衛門の武功により一命を助けられた。その後、新兵衛は訓恩に感じ、後世に貢献しようと茶を栽培し、製茶にも全力を尽くし、皿屋谷一円に奨励し嬉野茶を創始した。
 この大茶樹は、その中の一本が残ったものと伝えられ、すでに樹齢340年は経ていると思われる。今では、過去数回の暴風雨、豪雪により樹勢は幾分弱っている。往時は、この大茶樹を献上茶として精製し天皇陛下の飲用に供したこともある。
俵坂関所跡

 俵坂は、地理的に西肥交通の要所として重視され、戦国時代はすでに番所(幕府の関所に対する諸藩の口留番所)が設けられていた。
 江戸時代には佐賀、大村両藩の境を占める番所として平時は、侍1人、足軽9人が常駐していた。諸大名の参勤交代、鍋島・黒田両藩の長崎警備、オランダ商館長の参勤交代の往来は頻繁で任務も重大であったが明治4年(1871年)に廃止された。
 現在の記念碑は、当時の門柱で立てられ、碑の周囲660m平方が関所跡地でよこの坂道が当時の長崎街道である。
「9月3日雨、嬉野駅を過ぎて、田原坂あり、坂の半途に門あり、門内に衛卒あり、門を過ぎて少しく行けば、二碑あり、大者従是北佐嘉領、小者大村領の由刻す。是より、大村丹後守2万2千石の領内なり。」