鯉の発祥・歴史

 鯉の原産地は、黒海・カスピ海沿岸の中央アジアと中国。

 ヨーロッパへの鯉の移植経路は、紀元前三世紀で、このころ、キプロス島を経てギリシャへ渡った。鯉の属名である「キプリヌス」は、この島名からきている。

 鯉は、十四世紀以降、十字軍の遠征によって、中部ヨーロッパへはいった。はじめの頃は、ハンガリーやオーストラリアにはいったが、次第に近隣の国々に広がっていった。

 ロシアにはいったのが十八世紀、アメリカへは十九世紀、その後、ほとんど全世界に分布した。

 いまや、地球上で鯉のいない所は、両極地帯の地域ぐらいで。

 鯉の養殖はずいぶん古くから行はれた。中国では、紀元前五世紀の頃に、既に養殖法の記述がある。陶朱公范蠡の『養魚経』である。

 中国から渡来した日本の鯉については、紀元一世紀のころ、景行天皇が鯉を池に放して飼った記録が残されている。

 古来、東洋では鯉は”出世魚”とされ我が国では端午の節句の鯉幟となって、男子の出世を象徴した。

 はじめは、食用にしていた鯉であったが、我々の祖先はいつか観賞用の色鯉を作りあげた。まず中国で緋鯉、黄鯉ができ、我が国ではさらにこのほかに、鯉の自然淘汰と遺伝を利用して紅白・三色・五色・白・青・縞など、色彩に富む色鯉を次々に生み出した。我が国の錦鯉の産地は、古くから、越後の国とされている。

 中央アジアに発して広まつた鯉は、オーストラリア・ドイツで、革鯉・鏡鯉として固定し、1904年はじめて日本にもはいってきた。

 これをドイツ鯉といい、非常に丈夫な種属なので、だんだん日本全国に広まり、さらに在来種と交配されて、和鯉の体質改善エポックとなったのである。ドイツ鯉は、鱗が少ないので、日本では食用としてあまり評判はよくなかった。しかし、この移入で、日本在来の鯉の体質を変えたり、色鯉では、秋翠などの新品種がつくられた。


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